母と過ごした1年と309日②〜僕が感じた違和感〜

前回の記事のつづきです

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僕が感じた違和感

母はそのまますぐ入院することになりました。いくら緊急事態とはいえ、僕の弟は大学受験の勉強中だったし、同居する母方のおばあちゃんにも心配かけまいと、その数日後に母との面会を兼ねて家族会議をする約束をしました。

数日後、僕と父と叔母(母の妹)だけで、母の入院している病院に車で向かうことになったのですが、僕は車の中で「お母さんはかなり落ち込んでいるだろうなぁ」とか、「悲しみや辛さでやられてしまっていないかなぁ」と心配していました。

僕たち3人は病院に着いてからドキドキしながら母の病室まで向かいました。検査入院をしていた時から会っていなかったので、母と会うのは約2週間ぶり。病室には他の患者さんが5人ほどいたので、部屋の入り口に掛かっていた母の患者番号を調べてみると、母は窓際のベッドだということがわかりました。

そして、仕切られているカーテンをさーっと開けると、そこにはいつもと変わらぬ自然体の母がいたんです。

「お母さん、久しぶり。」
「ひで、心配かけちゃったね。ごめんね。」

たしか最初の会話はこんな感じだったと思いますが、母はちょっと申し訳なさそうな感じで、ニコッと笑っていました。その姿は入院する前となんら変わることはなく、「いつもの母親」そのものだったんです。

だから僕はなんだかホッとしたような感覚もあったのですが、それと同時に「本当に心は大丈夫なのだろうか?」疑問も生まれていました。

そんな久しぶりの会話も束の間、お見舞いに来た3人と母は別室の会議室のような小部屋に移動しました。ちょうど4人掛けのテーブルがあったので、そこに皆んなで腰かけて、家族会議が始まりました。そこでは、今後の治療方針のことや、家のことや、お金のことなど色々話しました。時間はだいたい30分〜40分くらいだったと思います。

僕はその家族会議の途中で、さっき感じていた疑念のようなものがだんだんと大きくなり、「違和感」が生まれてきたんです。

それは、余命宣告をされてツラいはずの母がいつも通りであること、表情からも不安な様子がなかったこと、そしてその場にいる誰もが一切泣かずに話していること。

そんなことを頭の中で考えていた僕は、家族会議の最中にもかかわらず、涙が目ん玉の裏っかわにまで来ていました。ただ、「お母さんが泣いてないのに泣いちゃダメだ」と必死にこらえていました。

でも、どうしても僕はこの違和感を払拭しないことには、家に帰ることはできないと思ったので、家族会議が終わりかけた時に、「ちょっとこのあと僕とお母さんをふたりにしてほしい」と、その場でみんなに伝えました。


そして父と叔母は部屋を出ていって、僕と母は小さな会議室でふたりきりになったんです。

僕はふたりきりになって、何を話そうかなんて決めていませんでした。でもとりあえず違和感は伝えたいし、母の本当の気持ちを知らないとなんだかモヤモヤすると思っていました。

もう喋りだす頃には、僕は泣いていました。そして僕は涙ながらに自分が感じていた違和感を思い切りぶつけました。

「なんでお母さんは笑顔なの?なんで悲しい顔をしてないの?なんで泣いていないの?ツラくないはずないよ、、我慢しないで、、。」

母は僕からの質問に答えるまえに、ぶわーっと泣き出しました。思いっきり泣いていました。そして、母は鼻水をすすりながら、初めて“本音”を伝えてくれたんです。

「私、入院してから一切泣いていなかったよ。でも本当はとっても悲しいし、辛いし、寂しかった。Sくん(三男)の成人式はギリギリ見れないかもしれないし、ひでが結婚したところや孫も見たかったし、本当は旅行とかいっぱいしたかったなぁ、、でも私1年しか生きられないから、、」

僕はこれを聞いたときに、「あぁ、やっぱり我慢してたんだ。本音が聞けてよかった、安心した。」と思って、さらに涙が溢れてきました。でもやっぱり、母が1年で死んでしまうのかと、その現実を直視した時にとんでもなく悲しくて寂しい気持ちになったんです。

だから僕はそこで母親を抱きしめました。「大丈夫、絶対大丈夫。」と、涙を流しながら声をかけました。

そりゃもちろん、「母親を抱きしめる」というのは、多少なりとも恥ずかしいと思ったし、なんなら今ここに書くことだって恥ずかしい気持ちはあります(笑)

でも、今振り返ってみると、この瞬間が、母にとっての「自分らしく生きる」の始まりだったのではないかと思うのです。そして僕の人生にとっても、すごく大きな原点になっていると、感じています。

次回の記事では、末期癌を宣告されて絶望していた母や家族が、徐々に歩み始めて、それぞれの人生を生きていくという話をしたいと思います。

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